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明日から通常国会~改憲について考える

春になると蝶が飛び、花粉は舞って受粉する。摂理であり、正しいかどうかは関係ない。改憲は民族と国家を信じるかどうかの問題だ。

種と民族の違いは統計的肉体的なものと、文化、言語、芸術、宗教の違いである。同等に思うこともでき、そう思わないこともできる。民族の存続は文化、言語、芸術、宗教の存続であり、国家とは一つの民族の形式である。

近世まで、国民・国家を代表していたのは武士であり貴族であった。歴史から離れ「永遠」にいた農民は民族であった。現代は民主主義となり民族と国家は重なり合う。

大日本帝国憲法は大政奉還を、日本国憲法は太平洋戦争を経て生まれた。憲法は貨幣をはるかに超え、一つの高度体制の終わりを告げる。

同時に政府がカエサル主義となれば、憲法は形式に関係なく無形式となる。憲法の精神が死んでしまえば(時代に合わなければ)意味も重みもない。そうすると個人的な権力に帰っていく。

1907年のハーグ平和条約は、第一次世界大戦の序章となった。科学技術の進歩に条約がついていけず、攻めるか攻め取られるかの時代において、正義と理念は資源、領土、経済利得に勝ることはできなかった。

9条、現代において平和主義が平和を呼び寄せ、生活、領土を守れるか否かが問題だ。平和主義(戦力の不保持、交戦権の放棄)により守れるなら存続させ、できないのなら終わりを告げなければならない。外国政府は平和主義を見て攻めるのか、自重するのか、攻められてから変えるのか、その前に変えるのか、歴史の答えはいつも冷酷だ。さもなければ永世中立国のスイスであり強い軍隊と経済をもつ。

世界は再び米、中、露の競争に向かう最中だ。戦争は、相手国に自国の意思を強要するために行う力の行使であり、見える形から見えない形(テロ、サイバー、宇宙、通貨、AI・・・)へ変化中であり、条項の有無は象徴的な意味あいを増している。

米に頼るか、自分で守るか。古代、世界帝国の国民とは、平和のためにではなく、他の国民のために、解体することを意味してきた。奴隷となるよりも死んだ方がまし、と思うか、生きてこその物種と思うか、民族の継続は拍子であり、言語は言語闘争で生き残る。

アイデンティティーを取り戻そうと希求するのは魂であり、魂は生命、精神の源であり、そうして生命は最初にして最後であって、損か得かは問題でない。

欧米キリスト教世界の魂、 spiritは天に向かい情熱的であり、ロシアは大平原に沿う地平線的であり、中国は魂魄であり天と地に向かう。和魂が覚醒存在であるか否か、

人間にとって最大の敵は、だいたいにおいて自分である・・・セネカ

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